2018年3月11日日曜日

2018/3/11 福音集会

 みなさんこんばんは。3月も半分ほど過ぎ、新年度に向かっている今日この頃ですが、どの様にお過ごしでしょうか🌸。寒暖差の激しい日が続きますのでお身体にお気を付けください💪。


 さて、今日の福音集会ではお二人の方がメッセージをしてくださいました。神様に立ちかえることと、神の国に入ることとをテーマに話していただきました。私も神様との関係について覚えさせられました👀

 使徒の働きの17章16節から34節では、パウロという伝道者がアテネの人びとに福音を伝えた記事が載っています。そこでパウロは「イエスキリストの復活」について述べ伝えました。アテネの人たちは毎日、新しいことを聞いて過ごしていましたので、興味をもっていました👂。しかし、話を聞き終わると、「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、他の者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った」のです(使徒17:32)。
 なぜでしょうか?それは、パウロが知識だけ、頭の中におさまる話だけをしたのではなく、アテネの人たちの生き方を変える話、創造主なる神とその神の裁きについての話をしたからです。神様が人と関係を持ちたいと願っておられる、拒んでいる罪がやがて裁かれるということです。これを聞いたアテネ人は去っていったのです。

 さきにみたアテネ人のように、自分の人生は自分でコントロールしたい、生き方を変えられるのは嫌だと感じます。しかし、イエス様もその弟子たちも語ったことは、「神の国が近づいた」ということです。私たちが神様にゆだねるとき、私たちのうちに神様の支配があるのです❗

 ここで、復活されたイエス様が言われた言葉を思い出しましょう。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」
(マタイ28:18)
この言葉から王の王である方、主の主なる方がイエス・キリストであるということが分かります。私たちが認めようが認めまいが、王である方は変わらないのです。

 ここまで神様との関係について考えられたことがあると思います。神様は私たちと生きた関係を持ちたいと願っておられます。
私たちが神様に立ちかえることができるように、イエス様を遣わしてくださったのです。私たちは、自分の罪のために死なれ、葬られ、よみがえらされたイエス・キリストを信じることで、神様との生きた関係に入れられるのです💓
 
 みなさんの人生の主はだれでしょうか?すべてを神様にゆだね、神様との生きた関係の中で歩まれますよう強くお勧めいたします。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
(ヨハネの福音書14章6節)

2018年2月4日日曜日

2018/02/04 福音集会

今日の福音集会では「備え」というテーマでお話がありました。

「終活」という言葉があります。身辺整理や遺言などに関することですが、それらはすべてこの世に関することです。
聖書にはこんな言葉が書かれています。

イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」アモス4章12節
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」伝道者の書7章2節

私たちの本当の終活は神様に会う備えです。人の終わりに心を留めることは大切であると聖書は語っているのです。

ルカの福音書16章19-31節にはこんな記事があります。
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

地上ではラザロと金持ちは全く違った生活をしていました。しかし、この地上での状況は違っていてもみな同じように死を迎えます。
ラザロはユダヤ人にとって信仰の父であるアブラハムのいるところ、つまり神様のもとへ連れていかれました。

この記事から三つのことが考えられます。
①死は終わりではない
金持ちが死後行った場所には感情も意識も苦しみの感覚もありますが、財産や社会的地位はついてきませんでした。この世のもので死後を保障するものは何もないのです。

ここで聖書が語るのは、裕福そのものが悪いことであるということではありません。与えられたものそれ自体ではなく、それをどう管理していたかが問われるのです。

②二つの行き先があるが、互いに行き来できない
金持ちの五人の兄弟たちに「モーセと預言者」、つまり聖書が備えられているように、私たちには今すでに神様の備えがあるのです。私たちはその神様の言葉に聞き従う必要があります。

③死後のことは聖書に従ったかどうかで決まる
コリント人への手紙第二5章21節から6章2節にはこう書かれてあります。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
神様は完全な備えをして私たちを待っていてくださいます。「神に会う備え」とは神様の備えを受け入れることです。神様が一方的な恵みである救いを用意して待っていてくださっているということを、私たちが信じて受け入れることなのです。


2018年1月14日日曜日

2018/1/14 福音集会

こんにちは!
寒い日が続いていますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

今日の福音集会ではルカの福音書19章1-10節が開かれました。
エルサレムに向かう途中のイエスさまが、エリコという町を通られたときのことが書かれています。

それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

①ザアカイはイエスさまを見たい一心でプライドを捨て、木に登りました。そしてイエスさまは、そんなザアカイの「下」に来てくださったのです。イエスさまは神様である方ですが、人に仕えるためにこの世界に来てくださいました。私たちはここからイエスさまの謙遜を見ることができます。

②イエスさまは十字架に架かられるためエルサレムに向かわれていましたが、その途中でこのエリコに立ち寄られました。イエスさまがザアカイに会うのはこの日だけだったのです。イエスさまはザアカイのために「きょう」という日を備えてくださっていました。

③イエスさまの「あなたの家に泊まることにしてあるから」という言葉は、別の翻訳では「泊まらなければならない」という意味になります。他の人々はイエスさまを受け入れたザアカイを見てつぶやいていましたが、ザアカイは大喜びでイエスさまを迎えました。

神様は私たちの弱さも含め、すべて受け入れてくださる方です。また、ザアカイに備えられた日があったように、私たちにも神様が備えてくださっている「きょう」という期間があるのです。そして、ザアカイは周りの人たちのつぶやきを気にすることなく、自分を受け入れてくださるイエスさまを、すぐに喜んで迎え入れました。

イエスさまは「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と言われましたが、そこにはザアカイだけでなく私たち一人ひとりが含まれています。
みなさんもザアカイのように、「きょう」イエスさまを救い主として信じ、受け入れませんか。


2018年1月7日日曜日

2018/1/7 福音集会


あけましておめでとうございます。

みなさまは昨年末どのような一年だったでしょうか?2018年の抱負はおありでしょうか?皆様の一年に神様からの祝福がありますようお祈りいたします。
昨年末、ブログの更新は滞ってしまいましたが、今年もみことばをお分かちしていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

さて、
今日は新年のはじめ、神が人を創造された箇所、創世記の1章が開かれました。

「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべてのものを生き物を支配せよ。』」
(創世記1:28)

このように神に祝福されて生まれた、いのちをいただいた人間は神から離れ、神を知らないものとなりました。私たちは神様を知らないで生きるものとなりました。しかし、そのままではどうなるでしょうか?私たちは死ぬものとなりました。神を無視したままではいけないのです。

しかし、神様は私たちにイエスキリストを与えてくださいました。この方は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であります。この方の犠牲によって、私たちは罪赦されるのです。

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
(黙示録22:13・14)

私たちは神を無視して生きていればその報いがあります。しかし、神は、イエス様を与えてくださいました。この方に信頼するなら失望させられることはありません。報いを携えてこられるとき、この方をほめたたえる喜びの日が必ず来ます。私たちの人生はこの方あってのものであります。
新しい一年をどうかこの方に信頼して歩む方となられますように。

2017年11月4日土曜日

2017/11/04 ピクニック



こんにちは^^
11月4日、中高生クラスと日曜学校(小学生以下の子供たち)のイベントがありました♪
サンドウィッチを皆で作り、河川敷でピクニックをしました^0^

お昼ご飯の後、皆で聖書のお話を聞きました!
韓国からお越しくださった、沈さんが中高生にはヨハネ3章16節から神様のことをお話してくださり、日曜学校のみんなは紙芝居から聖書のお話を聞きました。

途中で雨が降り、一旦集会所に戻りましたが、その後も公園で遊ぶことができ楽しい時間を過ごしました〜^^*皆で素敵な時間を過ごせて感謝でした♩

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)



2017年10月18日水曜日

2017/10/15 福音集会

 こんにちは。今週は秋雨前線のせいで雨ばかりの一週間になりそうです🌂こんな雨の日には外に出るのが億劫になりますが、逆に家で温かくして聖書を読むととても幸せな気分にもなりますね☕
 今日のおはなしでは、神様が人間の滅びを望んでおられないということがテーマでした。神様は私たちの滅びではなく、悔い改めて救われることを望んでいてくださる。なんと感謝なことでしょうか。このブログでは、その中にあった「聖書にある3つの死」についてのことをお分かちしたいと思います。

3つの死

さて、3つの死と言われたとき、どのようにイメージされるでしょうか?それらは、①肉体の死、②霊的な死、③永遠の滅び、と紹介されました。ひとつずつご説明します。

①肉体の死
 肉体の死とは、普段「○○さんが亡くなられた」という時に使う「死」のことです。「死」とは分離を表す言葉だそうです。肉体の死とは、肉体と魂の分離のことですね。これは、イメージしやすいのではないでしょうか。

②霊的な死
 さきほどの分離という言葉を使うならば、霊的な死とは、肉体は生きていても、霊が神様と分離している状態ということです。これを、ドローンを例におはなしくださいました。ドローンは機体は動いていても、電波を受信できなければどこに飛んでいくかわからないですよね。機体そのものは生きている、けれども電波を受け取れない、操縦する人と分離してしまう。これが霊的な分離の良い例ですね。
 また、ルカの福音書15章には放蕩息子の例えという話があります。ここでは、父親の相続財産を生きているうちにもらい、街に出て放蕩する弟息子が登場します。彼は、お金が無くなりどうしようもなくなった末に、父のもとに帰ることを決意します。帰ってきた息子を父は大喜びで迎えます。その時に父が言った言葉がこれです。
「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが
見つかったのだから。」(ルカの福音書15章24節)
父にとって街で楽しんでいた息子は、父と離れていて死んでいた、かえって生きた息子は、どれだけボロボロでも生き返ったと言われたのです。これはまさに、私たちと父なる神様との関係そのものですね。私たちが神様と離れていることが霊的な死なのです。

③永遠の滅び
 では、永遠の滅びとは何でしょうか。これは、永遠に神様とはなれるということです。黙示録20章にはいのちの書に名前のない者は永遠の滅び、神様との永遠の分離、が待っているとあります。すなわち、霊的に死んでいる人が、肉体の死を迎えると、永遠の滅びにはいっていしまうということです。しかし、神様ご自身が、私たちを永遠の滅びから救いたい、失いたくないと思ってくださるということは、なんということでしょうか。

 今回は「死」のことについて記事を書きましたが、「死」について考えると「いのち」のことを考えることにもつながりますね。永遠の滅びに向かう私たちに永遠のいのちを与えてくださったのが神様の恵みであるとは本当に感謝なことです。肉体の死はいつか訪れるでしょう。どうか早い日に永遠のいのちを受け取ることができますように💗

2017年9月24日日曜日

2017/9/24 福音集会

 最近は昼は暑いのに朝夕は冷え込むという厄介な気候ですね。
私は毎日脱いだり着たりをして温度調節していますが、みなさまも体調に気を付けてください💪
 さて、今日も聖書からのメッセージを紹介したいと思います📖

出エジプト記に出てくる奴隷の話

 出エジプト記の21章には奴隷についてのルールが書かれています。そこでは、へブル人の奴隷は7年目には自由の身で去ることができるとあります。そして、主人が奴隷に妻を与えた場合、7年目に去ることができるのは奴隷だけであり、奴隷の家族は主人のものとなるのでした。
 しかし、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と言うなら、主人は奴隷の耳をキリで刺し通し、彼は家族とともにいつまでも主人のもとにいれるのです👪
 奴隷は自分自身で痛みを負い、自ら犠牲となることで、愛する家族といつまでもともにいることができるのでした💓
 この記事から、家族の愛やつながりが本当に素晴らしいと感じます。また、この記事からはイエス・キリストのことを考えることもできます。

イエス・キリストの犠牲

 イエス・キリストは十字架にかかりました。では、なぜ十字架にかかったのでしょう?彼はその生涯で悪いことをするどころか、良いことだけをして生きていかれました。彼に罪を認める者はおらず、神様も「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。」と言われました。


「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」ローマ人への手紙4章25節

 私たちはみな死にます。それは罪のためだと聖書は語ります。すなわち、私たちはみな罪があるということです😰この罪を解決するすべを私たちは持っていません。それはあまりにも莫大なのです。
 それゆえ、イエス・キリストはこの罪のために、身代わりになって十字架にかかってくださったのです。一点の罪もないお方が、罪の負債をすべて負って払ってくださった。これが十字架の死なのです💓💓
 このイエス・キリストにありがとうございますと言って罪の赦しを受け入れるだけでよいということなのです。死への不安も裁きの恐怖も必要ありません。罪の解決は、イエス・キリストがしてくださったというのです❗❗❗

おわりに

 先日、私の集会でも家族合同の追悼記念会というものをしました。ともに死について考える機会を持てました。私たちは必ず死にます。イエス・キリストによる赦しはとても感謝なことです。死んだ後に行く先は神様のところと決まっています。どうかこのイエス・キリストのくださった救いを受けられますようにお勧めします。

2018/3/11 福音集会

 みなさんこんばんは。3月も半分ほど過ぎ、新年度に向かっている今日この頃ですが、どの様にお過ごしでしょうか🌸。寒暖差の激しい日が続きますのでお身体にお気を付けください💪。  さて、今日の福音集会ではお二人の方がメッセージをしてくださいました。神様に立ちかえることと、神の...