2017年11月4日土曜日

2017/11/04 ピクニック



こんにちは^^
11月4日、中高生クラスと日曜学校(小学生以下の子供たち)のイベントがありました♪
サンドウィッチを皆で作り、河川敷でピクニックをしました^0^

お昼ご飯の後、皆で聖書のお話を聞きました!
韓国からお越しくださった、沈さんが中高生にはヨハネ3章16節から神様のことをお話してくださり、日曜学校のみんなは紙芝居から聖書のお話を聞きました。

途中で雨が降り、一旦集会所に戻りましたが、その後も公園で遊ぶことができ楽しい時間を過ごしました〜^^*皆で素敵な時間を過ごせて感謝でした♩

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)



2017年10月18日水曜日

2017/10/15 福音集会

 こんにちは。今週は秋雨前線のせいで雨ばかりの一週間になりそうです🌂こんな雨の日には外に出るのが億劫になりますが、逆に家で温かくして聖書を読むととても幸せな気分にもなりますね☕
 今日のおはなしでは、神様が人間の滅びを望んでおられないということがテーマでした。神様は私たちの滅びではなく、悔い改めて救われることを望んでいてくださる。なんと感謝なことでしょうか。このブログでは、その中にあった「聖書にある3つの死」についてのことをお分かちしたいと思います。

3つの死

さて、3つの死と言われたとき、どのようにイメージされるでしょうか?それらは、①肉体の死、②霊的な死、③永遠の滅び、と紹介されました。ひとつずつご説明します。

①肉体の死
 肉体の死とは、普段「○○さんが亡くなられた」という時に使う「死」のことです。「死」とは分離を表す言葉だそうです。肉体の死とは、肉体と魂の分離のことですね。これは、イメージしやすいのではないでしょうか。

②霊的な死
 さきほどの分離という言葉を使うならば、霊的な死とは、肉体は生きていても、霊が神様と分離している状態ということです。これを、ドローンを例におはなしくださいました。ドローンは機体は動いていても、電波を受信できなければどこに飛んでいくかわからないですよね。機体そのものは生きている、けれども電波を受け取れない、操縦する人と分離してしまう。これが霊的な分離の良い例ですね。
 また、ルカの福音書15章には放蕩息子の例えという話があります。ここでは、父親の相続財産を生きているうちにもらい、街に出て放蕩する弟息子が登場します。彼は、お金が無くなりどうしようもなくなった末に、父のもとに帰ることを決意します。帰ってきた息子を父は大喜びで迎えます。その時に父が言った言葉がこれです。
「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが
見つかったのだから。」(ルカの福音書15章24節)
父にとって街で楽しんでいた息子は、父と離れていて死んでいた、かえって生きた息子は、どれだけボロボロでも生き返ったと言われたのです。これはまさに、私たちと父なる神様との関係そのものですね。私たちが神様と離れていることが霊的な死なのです。

③永遠の滅び
 では、永遠の滅びとは何でしょうか。これは、永遠に神様とはなれるということです。黙示録20章にはいのちの書に名前のない者は永遠の滅び、神様との永遠の分離、が待っているとあります。すなわち、霊的に死んでいる人が、肉体の死を迎えると、永遠の滅びにはいっていしまうということです。しかし、神様ご自身が、私たちを永遠の滅びから救いたい、失いたくないと思ってくださるということは、なんということでしょうか。

 今回は「死」のことについて記事を書きましたが、「死」について考えると「いのち」のことを考えることにもつながりますね。永遠の滅びに向かう私たちに永遠のいのちを与えてくださったのが神様の恵みであるとは本当に感謝なことです。肉体の死はいつか訪れるでしょう。どうか早い日に永遠のいのちを受け取ることができますように💗

2017年9月24日日曜日

2017/9/24 福音集会

 最近は昼は暑いのに朝夕は冷え込むという厄介な気候ですね。
私は毎日脱いだり着たりをして温度調節していますが、みなさまも体調に気を付けてください💪
 さて、今日も聖書からのメッセージを紹介したいと思います📖

出エジプト記に出てくる奴隷の話

 出エジプト記の21章には奴隷についてのルールが書かれています。そこでは、へブル人の奴隷は7年目には自由の身で去ることができるとあります。そして、主人が奴隷に妻を与えた場合、7年目に去ることができるのは奴隷だけであり、奴隷の家族は主人のものとなるのでした。
 しかし、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と言うなら、主人は奴隷の耳をキリで刺し通し、彼は家族とともにいつまでも主人のもとにいれるのです👪
 奴隷は自分自身で痛みを負い、自ら犠牲となることで、愛する家族といつまでもともにいることができるのでした💓
 この記事から、家族の愛やつながりが本当に素晴らしいと感じます。また、この記事からはイエス・キリストのことを考えることもできます。

イエス・キリストの犠牲

 イエス・キリストは十字架にかかりました。では、なぜ十字架にかかったのでしょう?彼はその生涯で悪いことをするどころか、良いことだけをして生きていかれました。彼に罪を認める者はおらず、神様も「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。」と言われました。


「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」ローマ人への手紙4章25節

 私たちはみな死にます。それは罪のためだと聖書は語ります。すなわち、私たちはみな罪があるということです😰この罪を解決するすべを私たちは持っていません。それはあまりにも莫大なのです。
 それゆえ、イエス・キリストはこの罪のために、身代わりになって十字架にかかってくださったのです。一点の罪もないお方が、罪の負債をすべて負って払ってくださった。これが十字架の死なのです💓💓
 このイエス・キリストにありがとうございますと言って罪の赦しを受け入れるだけでよいということなのです。死への不安も裁きの恐怖も必要ありません。罪の解決は、イエス・キリストがしてくださったというのです❗❗❗

おわりに

 先日、私の集会でも家族合同の追悼記念会というものをしました。ともに死について考える機会を持てました。私たちは必ず死にます。イエス・キリストによる赦しはとても感謝なことです。死んだ後に行く先は神様のところと決まっています。どうかこのイエス・キリストのくださった救いを受けられますようにお勧めします。

2017年9月10日日曜日

2017/9/10 福音集会

こんにちは!だんだんと涼しい日が多くなり秋が近づいてきましたね。


今日も福音集会で語られたメッセージの一部をご紹介します。

聖書には、神様を信頼する人は死んだあと、神様がおられる世界へ行くことができるということが書かれています。
ではこの世界は神様を信じるための“猶予期間”なのでしょうか。
実はそうではないのです。
神様を信じた人にとってこの世は天国へ行くための待合室となるのではありません。

例えばフライパンについて考えてみましょう。
フライパンはフライパン自身のために存在するのではなく、それを使う人のために存在します。
フライパンの存在の目的はそれを作った人が作る前から決めているのであり、フライパン自身が決めるのではありません。
フライパンを食器として使ったとすると、取っ手が邪魔で、見た目も良くありません。
しかしフライパンをフライパンとして使ったとき、それは存在の目的を果たし、それを作った人がほめたたえられるのです。

私たちも私たちを創られた神様の目的のために存在しているのです。
「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、…」箴言16章4節

私たちは自分がどう生きるかではなく、神様が私たちをどう生かそうとされているのか、神様が私たちに与えられる計画について知らなければならないのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」コリント人への手紙第二5章15節

私たちが自分自身のためにではなく、神様のために生きるようになるために、神様はイエス様をささげられました。

私たちは神様の性質に似せて創られました。
神様を愛し、また人を愛するものとして創られたのです。

しかし罪によりそれは崩れ、ねたみや争いや支配という関係が生まれました。

私たちのためにイエス様を犠牲にされたその神様の愛を知り、その愛を受けとることで、私たちは再び神様を愛し、人を愛するものへと変えられていくのです。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」コリント人への手紙第二12章9-10節

私たちには弱さがありますが、その弱さを通して神様の素晴らしさがあらわされることがあるのです。
神様は弱さをもったままの私たちを選ばれる方です。
あなたも弱いまま、そのままの状態で神様のもとへ飛び込んでみませんか?





2017年9月3日日曜日

2017/09/03 福音集会


夏の怪談話のひとつに、番長皿屋敷というお話があります。
大事な皿を一枚割ってしまい、死んだ女が化けて出て、皿を「一枚、二枚...」と数えていきますが、「八枚、九枚...一枚足りない。うらめしや...。」
と言うお話です。

これによく似た話が、実は聖書にも出てきます。

一枚の銀貨を失くした女の話です。
皿屋敷の話と同じように、この女は10枚の銀貨を持っていましたが、最後の一枚を失くしてしまいました。
しかし皿屋敷とは違い、最後には銀貨を見つけ、さらに近所の人たちを呼んで「一緒に喜んでください。」と言って終わります。ハッピーエンドです。

この話は、イエス・キリストが話した例え話です。
なくなった銀貨とはなんでしょう。
それは、私達人間です。
神様にとって、私たちは失われた存在なのです。

どのように神様は失われた私たちを得ることができるのでしょうか。
それは、神の御子イエス・キリストの十字架という犠牲によってです。
そして私たちは自分の罪を認め、自分の思いを神様の前に吐き出し、神様の方に心を向ける必要があります。
その時に、失われた銀貨である私たちは、主人のもとに戻ることができ、主人である神様はそのことを喜んでくださいます。

コリントⅡ5章17節
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。

2017年8月27日日曜日

2017/8/27 福音集会

8月も最後の日曜日となりました。みなさまいかがお過ごしですか。
 本日の福音集会ではゲストをお呼びして、『聖書が語るいのちの水』と題してメッセージをいただきました。このブログで少し分かち合いたいと思います。
 今日のお話では、イエス様とサマリヤ人の女性との記事から、神様からの救いについて考えることができました。

サマリヤの女

ヨハネの福音書4章1節から42節にサマリヤ人女性の記事が記されています。この記事ではイエス様はのどが渇いて、水を汲んでいるサマリヤの女性に水を求められました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしませんでしたが、これを契機にイエス様とサマリヤ人女性との物語が始まります。
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」
(ヨハネの福音書4章14節)
 さて、この言葉はサマリヤ人女性にイエス様が飲み水を求めた後、イエス様が「わたしは生ける水を与える」と言われました。それに対して、「あなたは汲むものを持っていないのに、どうやってその水を手に入れるのか」とサマリヤ人女性が尋ねたことへのイエス様の答えです。「この水」とは井戸から汲んで手に入れる水です。もちろん飲んでもまた渇きます。イエス様は渇かない水を与えると言われたのです。ここには、象徴的な意味が含まれています。「この水」とは人間的な方法によって救いを求めることであり、一時的な解決こそあれ、それは一時的であり、また渇くのです。イエス様が与える救いは、永遠のいのちであるということです。
 サマリヤの女性は渇くことのない水を求めました。彼女はわき出る水が何かよくわかっていませんでしたが、これはとても幸いなことです。この女性はふしだらな生活をしていました。イエス様はそのことを言い当て、彼女の生活に迫りました。この女性は人間の愛を求め、それを人生の目的のようにしていました。これが彼女にとっての「この水」だったのです。それをイエス様は明らかにされました。彼女は何度も渇いて、5人の夫を持ち、現在は夫でないものと同棲していました。
「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
(ヨハネの福音書4章25節26節)
 彼女はキリストと出合いました。彼女は急いで町へ行って、キリストのことを町の人に伝えました。彼女はそれまで人間の愛を求めては渇きを繰り返していました。しかし、キリストと出合って、価値観が変わったのです。

私たちにとっての水

私たちはどうでしょうか?毎日渇く水を飲んで渇きを繰り返す生活でしょうか?イエス様は「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」と言われました。
「イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」
(ヨハネの福音書7章37節38節)

私たちはイエス様を信じることによってこの生ける水をいただけます。罪からの救いはこの方にあるのです。決してこの世の人間の考えた方法にはよらないのです。このサマリヤ人の女性のように、イエス様を信じることによって与えられる救いを受け取られますようお勧めいたします。

2017年8月20日日曜日

2017/8/20 福音集会

今日は「小さきものにも目を留めてくださる神様」というテーマでお話がありました。

聖書に書かれた神様はどんな方でしょうか。
人間が創った神様ではなく、人間を創られた神様です。

私たちの想像力をいくら働かせても、神様の真実を知ることはできません。
しかし神様ご自身が私たちに語ってくださっているのです。

私たちは何かを学ぶとき、それを理解したあとで行動に移すと思いますが、聖書の神様を知るには順番が少し違っています。
まず聞くこと、そして信じて従い、理解するのです。

ヘブル人への手紙11章6節にはこう書かれています。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
私たちが神様に何かを求めるのではなく、神様ご自身を求める必要があるのです。
「信じて従う」とは、キリストを救い主として受け入れるということです。

今日はメッセンジャーのNさんがご自身のお母さんの目線からお話をしてくださいました。
クリスチャンとして神様に導かれて歩んでこられましたが、困難や試練もたくさんあったそうです。
そんな人生を今振り返って思うことは、神様の恵みはいつも十分であったということと、神様はすべてを益としてくださる方であるということをおっしゃっているそうです。

ルカの福音書12章6節にはこう書かれています。
「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前に忘れられてはいません。」
1アサリオンというのは300円くらいだそうですが、ここでは雀が大切だと教えているのではなく、雀よりも私たちは尊い存在だということを教えているのです。
神様は私たち一人一人のことを覚えていてくださるお方です。

私たちがするべきことは何でしょうか。
ヨハネの福音書15章4節にはこうあります。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

神様ご自身は私たちにこう言ってくださるのです!
わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。ヘブル人への手紙13章5節

2017年8月13日日曜日

2017/08/13 福音集会



こんにちは!
今日も、福音集会で開かれたみことばをご紹介します!

テーマは、「目が開かれる」です。
聖書には、2つの目が開かれる記事があります。

一つ目は、創世記です。
<創世記3章7節>
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。

この箇所のふたりとは、最初の人アダムと、その妻エバです。
エバが蛇に唆されて、神様が食べてはいけないと命じた木の実を食べたあと、ふたりの「目が開かれた」のです。
何に対して目が開かれたのでしょうか。罪に対して目が開かれてしまいました。そして神様から体を隠そうとしますが、隠れることはできません。
それどころか、この世界の全てをご存知で、全ての場所におられる神様は、私達の見えない心の中までご存知です。

詩篇139篇1-4節
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。


二つ目は、ヨハネの福音書です。
<ヨハネの福音書9章>
イエス様がつばきで泥をつくり、目に塗って、シロアムという、池で洗うように命じます。そして盲人がその通りにすると、見えなかった目が直り、目が開かれました。

この出来事によって、盲人は目が見えるようになります。肉体的な目が見えるようになっただけではなく、さらに霊の目が開かれ、この目を開いた人は、神から出ておられる方だと気づきます。
そしてもう一度イエス様に会ったとき、イエス様は私が人の子(救い主)だと気付きます。

<ヨハネ9章38節>
彼は言った。「主よ。私は信じます。」

<ヘブル2章14,15節>
そこで、子たちは皆、血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を開放してくださるためでした。

イエスを信じる者は、死から開放され、天国に行けます。そこで神様とお会いでき、共におり、その方をもっとよく知ることができます。それはなんと幸せなことでしょうか!

2017年8月6日日曜日

2017/8/6 福音集会

 8月になりました。夏真っ盛りとなりましたが、みなさまお元気ですか?
 今日の福音集会では「希望」というテーマでお話がありましたので、少し紹介させていただきたいと思います。
 みなさまは希望を持っておられるでしょうか?何に希望を置いておられるでしょうか?希望とは何でしょうか?ぜひこの機会に考えていただけたらと思います。

「希望」について考える

町に出ると様々な「希望」があるそうです。hopeという銘柄やesperanzaという名前、みな「希望」という意味だそうです。政党のポスターにも「希望」という言葉が使われていますね。
 また、「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。」というのは『故郷』(魯迅)の最後の一節です。この言葉をどのように捉えるかはさておき、希望について考えられているということですね。このように、多かれ少なかれ私たちは希望を求めていると言えるのではないでしょうか。

希望まさに聖書にあり

 ひるがえって聖書は希望の書と言えるのではないでしょうか?聖書には絶望の中にある人が希望を与えられるというエピソードが多く出てきます。まさに、希望の書と言えます。
 例えば、モーセという人物がいます。彼はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を率いて、エジプトから脱出をするのです。神様がモーセに言われた通り、モーセはエジプトを脱出しました。しかし、逃げた先には海があり、後ろからはエジプト軍の追手という絶体絶命の状態になってしまいます。そんな中、モーセは神様に信頼しました。すると、神様は海を退かせ、陸地とされました。イスラエルの民は陸地を進み逃げることができ、エジプトの追手から守られたのです。これはまさに神様の方法、絶体絶命の中で助けてくださる神様です。
 また、ヨシャパテ王という王様がいました。彼の国が強い外国から攻められた時、彼は次のように神様に言いました。「私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」彼もまた、四面楚歌の状態で、ただ神様に信頼していました。彼の国民もみな神様に目を向け、神様が共に戦われたので、彼らの敵は打ち負かされました。それはまさに神様が戦われたのでした。ここにもまた、神様の希望があらわれています。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、
理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ書33章3節)
 神様を呼び求める時、そこに希望があるということを教えられますね。
 

救いという希望

 最後に、聖書の希望を考える以上、救いについて書かないわけにはいきませんね。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)
 私たちは自分勝手な罪人で、神様を知らない者でした。そこからは滅びを刈り取るしかない者です。それはまさに絶望、どうしようもない状態です。しかし、神様は救いをくださいました。それこそがイエス・キリストです。彼が十字架にかかってくださったのは私たちの罪のため、私たちの身代わりであったのです。彼の十字架によって、私たちのすべての罪がきよめられ、信じる者にはもれなく永遠のいのちが与えられるというのです。これこそ永遠の希望です。
 イエス・キリストと共に十字架につけられた犯罪人も、まさしく土壇場でイエス・キリストが救い主だと気が付きました。この犯罪人は「あなたはパラダイスにいます。」とイエス・キリストから告げられました。死刑執行中でも彼には希望が与えられたのですね。
 みなさまが聖書の与えてくれる希望を受け取られる方となられますように。

2017年7月30日日曜日

2017/7/30 福音集会

今日の福音集会ではマタイの福音書14章22~33節が開かれました。

イエス様の弟子たちだけで舟に乗り、湖の向こう岸へ渡っていましたが、夜中の3時頃湖の上を歩いて来られたイエス様を見て、弟子たちは幽霊ではないかと恐れます。
しかしイエス様はすぐに弟子たちに「恐れることはない」と声をかけてくださいました。そしてこう続きます。

「すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。」

ここから5つのポイントについて考えました。

①私たちが信じる神様は確かなお方です。
私たちは人間関係の中で、相手が信頼できる人だと分かったときに心を開き、関係が一歩前進することがあると思います。
その信頼する相手が確かな人であることが重要ですが、私たちは人間である以上、間違うことも失敗することもあります。
しかし神様は確かなお方です。
裏切ることも間違うこともなく、最善をなさる方です。
私たちは神様に従っていれば間違うことはないのです。

②あなたが人生の暗闇を歩いているときも、神様はそのことをご存知です。
弟子たちは真っ暗な中、小さな木の舟に乗り、風が吹いて波に悩まされ、不安と恐れでいっぱいだったでしょう。
しかしそのときにイエス様は彼らを見捨てていたわけではありませんでした。
自ら私たちのもとに近づいてきてくださるお方なのです。

③信仰は神様が用意されるのです。
もう少し聖書が分かったら信じようとか、もう少し信仰をもつようになったらバプテスマを受けようなどと考えておられる方がいるかもしれません。
私たちが湖の上を歩けないように、ペテロも歩けませんでした。
しかし神様がペテロを歩かせてくださったのです。
他の弟子たちは舟の中にとどまっていましたが、ペテロは一歩踏み出し、歩き出したことで神様の助けを体感できたのです。
こんな小さな信仰では…と思うのではなく、一歩踏み出すことで神様を実感できることがあるのです。

④私たちは沈みかけているということに気が付く必要があります。
ペテロは一気に沈んでしまったのではありませんでした。「沈みかけた」のです。
そのときにペテロは自分の力で何とかしようとしたり、弟子たちに助けを求めたりはせず、イエス様に助けを求めました。
今、私たちも沈みかけているのです。今こそ聖書について、また神様について考え、備えられた救いを受け取るときです。
信仰を持てるのは私たちが生きている間だけなのです。

⑤イエス様は私たちの罪のために身代わりとして死んでくださいました。
「もしあなたがたが、わたし(=イエス・キリスト)のことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」ヨハネによる福音書8章24節

この「わたしのこと」は原文のギリシャ語では「エゴー・エイミ」と言い、神様の存在そのものを表す言葉として聖書で使われています。
つまりこの文章は「私が神であることを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」と読めますし、反対に言えば「イエス・キリストが神であることを信じれば、私たちは生きる」と言えます。

イエス様は神である方なのに私たちの罪のために死なれたのです。
そして私たちの罪が解決されていることを示すために復活されました。

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」コリント人への手紙第二6章2節

ぜひみなさんもイエス様を信じ従って歩まれることをお勧めします。

2017年7月23日日曜日

2017/7/23 福音集会

今日も、伝道集会で開かれたみことばをご紹介します。

詩篇39篇4節
主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢の終わりが、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができますように。
<7節>主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

この箇所から、2つのことがわかります。
ひとつは、人生は儚いものだが、人はそれに気づいていないということ、もう一つは人は神様のことを知るべきであるということです。

神様は、唯一であり、生きておられ、この世界の創造主であり、霊的(人格を持った)存在です。

<ローマ人への手紙5章12節>
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。

とっさに考えなしにとった行動が、誰かにとって悪いことだったり、相手を傷つけることだったりしたことはありませんか?
人は誰でも、罪の性質があります。

そんな罪人を、神様はお見捨てになることはしませんでした。
神の子であるイエス・キリストは、神が人を愛するがゆえに、十字架にかかり、私たちの罪の身代わりになってくださいました。

この身代わりに、というのは、私が借金を負っているとして、ある大金持ちがそれを肩代わりして完済してくれる、というような状況に似ています。

イエス・キリストは十字架で死んで葬られましたが、3日目によみがえりました。目撃者は数人の弟子だけでなく、500人以上いたと記述があります。数多くの証人がいたのです。

イエス・キリストの十字架には、どんな意味があるのでしょうか。
科学技術が進歩して、人間そっくりの、いやそれ以上の知能を持つロボットが生まれるのも、現実味を帯びてきました。
そうなると、人間の価値は失われるのでしょうか?
いいえ、けっしてそんなことはありません。人間は、他の動物達とは違い、神様が霊的な存在として創造されたからです。神様は人を愛し、尊い存在としておられます。

<ピリピ人への手紙 3章20節>
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

これらのことを信じた者たちの国籍は天にあります。地上の身体が死んだ後、天におられる神様のもとに帰れることを喜び、待ち望みながら地上の生活を歩んでいます。

この喜びをともに味わい、待ち望む人生を歩みましょう!

2017年7月2日日曜日

2017/7/2 福音集会

今日は「信仰」というテーマでのお話がありました。

信仰とは何でしょうか。
それは神様を信頼することです。
神様を愛することとも言えます。
「信頼する」ということは強い人や大人だけができることなのではなく、むしろ弱く幼い子供の方ができることです。

ローマ人への手紙10章17節にはこう書かれています。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

誰でも神様を信頼することはできますが、自分に語られているものとして聖書を読む必要があります。
そして自分がどんな存在か理解するだけでなく、キリストについて知らなければなりません。

キリストは何をされた方なのでしょう。
聖書にはこうあります。
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」コリント人への手紙第一15章3~6節

聖書で以前から予告されていた通りにキリストは死なれ、死んだことが確認されたので葬られ、聖書で予告されていた通りによみがえられ、また現れたことが多くの人に確認されたのです。
キリストの死と復活が明確な事実であるということが分かります。

神様との交わりがあることを聖書では「永遠のいのち」と言いますが、神様との交わりが絶たれた状態は「死」なのです。

神様を神様とせず、代わりにお金や偶像などを神様のポジションに置いている私たちは霊的に死んだ状態の罪人なのです。

「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」と詩篇49篇8節にあります。

私たちは自分自身のいのちをかけても自分のいのちを取り戻すことはできません。
自分で自分の罪を処理することはできないのです。

しかし、そんな私たちのため、神様はキリストを罪そのものとして十字架で裁かれました。
私たちの犯した罪を赦すためであり、また罪という原理から私たちを解放するためでもあります。

神様はキリストを信じる者をキリストと一つとして見られます。
キリストが十字架で死んだとき、私たちも共に死に、キリストが復活されたとき、私たちも共に生かされるものとみなされるのです。

あなたも神様を信頼し、神様の言葉に従い、神様の支配を自分のうちに受け入れ、神様によって生かされたものとして歩みませんか。

2017年6月25日日曜日

2017/6/25 特別伝道集会

こんにちは!

今日は、一日特別伝道集会で、栗本さんをお招きして、お話いただきました。
語られた聖書のみことばを紹介します。

本当の居場所というテーマでお話いただきました。
財布を持っていたとしても、手元にないとジュース一本買えず、意味をなしません。適切な居場所はどんな物にもあります。
人間も同じで、居場所がないと生きていけません。

<ルカの福音書15章11節~>
イエス様がたとえ話をしている場面です。
二人の息子がいましたが、弟は問題児でした。
お父さんに、死んだ後にもらえる分の遺産を今くださいとせがみました。

そのお金をもって、街を遊びあるきましたが、飢饉が起こり、お金もなくなり、やっと見つけた仕事は豚の世話でした。しかも、豚の餌さえ食べたくなるほど、惨めな状況になりました。

そこで、父親にあやまり、許してもらうために帰ります。父親は許してやり、家に迎えます。ハッピーエンドの話です。でも、不可解なところが2つあります。このことはまた後述します。

このたとえ話では、
父親は、神様をなぞらえています。
弟息子は、罪人である私たちの人間を表しています。

この世界を作られたのは神様です。

ローマ人への手紙1章20節
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によってはっきりと認められるのであって...(略)


神様は目に見えませんが、
天体や、人間の身体のつくりをみるたびに、神の存在を知ることができます。

神なんてを知らない、神なんていないと考えることは、一番の罪です。

罪は、最初の人間、アダムとエバの時に世界に入りました。二人は神様のたった一つの命令を守ることが出来なかったのです。
以来、人間には遺伝のように罪の性質が受け継がれて、神から離れる存在となってしまったのです。
しかし、それは人間のあるべき姿ではありません。
神様がアダムに、「あなたはどこにいるのか」と問うた通りです。

さて、ルカの15章のたとえ話に戻ります。
不可解な箇所があると述べましたが、20節にその箇所が出てきます。

20節
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

①父はなぜか家から遠い場所にいた。

なぜでしょう。それは、家で待っていたのではなく、近所を探すところから始まり、だんだん遠くへ、毎日毎日探し回っていたからに違いありません。

②父親から息子に走り寄って行った

当時のユダヤ人の父親像は昔の日本の親父像のようにどんと構えて、子供の方から走り寄っていく、というものでした。しかしこの父親は、喜びのあまり、息子に走り寄って行ったのです。

この父親の姿から、神様が私たちをこのように愛してくださる方であることがわかります。
そしてこの父親が息子を思うように、神様は私たちに帰ってきてほしいと願っておられます。

ヨハネの福音書3章16節
神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものがひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。

2017年6月18日日曜日

2017/06/18 福音集会

集会所の前には素晴らしい紫陽花が咲き誇っています。


今日は「十字架の言葉」というお話がありました。

神様はこの世界を創られ、私たちにも命を与えてくださいました。
しかし私たちは自分を生かしてくださっている方から離れ、自分勝手に生きています。

神様から離れると不安になる私たち人間は、神様に代わるものを色々と作り出してきましたが、それらは不完全で不安定なものなので私たちも不安になります。

自分で何とかして幸せになろうとすることを聖書では罪といいますが、その罪をもった私たちのために、神様はイエス様をこの世界に送られ、イエス様は十字架に架かってくださいました。

イエス様が十字架上で語られた言葉は聖書に7つ記録されていますが、今日はそのうち3つが紹介されました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)

朝9時に十字架に架かれられたイエス様の最初の言葉ですので、イエス様の一番の願いであるということがわかります。
聖書には人々がイエス様を十字架につけたことが描写されていますが、同時に別の観点からはイエス様が自ら進んで十字架に架かられたことが分かります。
神様から離れて自分勝手に生きている私たちの罪を負い、私たちに代わって神様に赦しを求めてくださったのです。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイの福音書27章46節)

この日昼の12時から3時まで、全地が暗くなって真っ暗であったことが聖書に書かれています。
人の目から隠されたこの3時間、神様から徹底的に裁かれたイエス様が語られた言葉なのです。
神の子としてではなく、罪そのものとして神様の前に立たれて全ての罰を受けてくださったのです。

③イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネの福音書19章30節)

「完了した」には「支払いが終わった」とか、「領収済みである」という意味があります。
私たちの罪のための支払いはイエス様ご自身が完全に終えてくださっているのです。

イエス様は十字架で死なれましたが、3日目に復活されました。
今イエス様は私たちのそばにいてくださり、私たちに救いを受け入れるよう語ってくださっています。
変わることのない完全なイエス様という土台があると、私たちは周囲の状況によらず、安定した人生を送ることができるのです。

みなさんもぜひイエス様を自分の救い主であると信じ受け入れ、確かな人生を送りませんか?


2017年6月11日日曜日

2017/6/11 福音集会

こんにちは!
紫陽花の綺麗な季節になりましたね!

今日も、伝道集会で語られた聖書の言葉をご紹介します。

ヨハネの福音書12章24節から49節のイエス様が話された言葉が解説されました。

23節
まことに、まことにあなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

ここでは、イエス様は、ご自身を麦になぞらえてお話しされています。イエス様は私たちの罪を、ご自身が死ぬことによって贖うためにこの世に来られました。

36節
あなたがたに光がある間に光の子どもとなるために、光を信じなさい。

救われるのにはタイミングがあります。神さまは忍耐して待っておられるのです。

37節
イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

奇跡を目の当たりにしていた人もイエス様を信じない人はたくさんいました。

40節
「主は彼らの目を盲目にされた。また彼らの心をかたくなにされた。(略)

信じるべきときに信じないと、心が固くされて、信じられなくなってしまうことがあります。

47節
わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たのです。

イエス様が人となって世に来られたのは、人を救うためです。
しかし、次に来られるときは、さばくことを目的として来られます。

48節
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしがはなしたことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

また、こうあります。

49節わたしは、自分から話したのではありません。私を遣わした父ご自身が、わたしに何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

聖書には、イエス様が、話された言葉がたくさん記録されています。
イエス様のことばを聞いて、神様の計画とみこころを知り、信じて救われる人となっていただきたいと思います。

2017年6月4日日曜日

2017/06/04 福音集会

みなさまこんにちは。6月に入り、日も長くなってまいりました。いかがお過ごしでしょうか。今日は聖書の福音、よき訪れについて共に考えることができました。テーマとなるみことばはこれです。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ書116節)
福音とは何でしょうか。それはキリストに関することで、神の御子キリストが十字架にかかってくださったこと、そこで私たちの罪を代わりにおってくださったこと。そして、復活してくださったことです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316節)

 どうして救われなければならないかということから考えてみましょう。テーマの言葉が記された当時のローマは人々が堕落しきっていました。贅沢を尽くし、食への強すぎるこだわりや権力争い、不道徳がありました。福音はこのローマの状況をも変えることができる神の力であるのです!実際、ローマでは権力者の中からもクリスチャンが起こってきます、ローマが変えられていくのです。私たちの中にも変えられるべき問題があるのではないでしょうか。
 では、このような問題の原因は何でしょうか。それは、神を神としないということであります。私たちは、私たちを生かしてくださっている神様がおられることを知ろうとしているでしょうか。探し求めれば明確に分かるようにしてくださっているのに、見ようとしないことは問題の始まりであります。神を神とせず、別のものを第一にすることこそ堕落の始まりであったのです。
「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなりその無知な心は暗くなりました。」(ローマ書121節)
 この堕落した生活、私たちの姿をみている神様は、立ちかえってほしい思いから、私たちをなすがままになさいます。私たちは何も裁かれないから大丈夫なのではないのです。神様は立ち直るのを待っておられますし、立ち直らないものに刑罰があることは明確に示されています。
 しかし、初めのみことばに戻ってみましょう。福音こそ救いを得させる神の力です。なぜでしょうか。キリストの十字架は私たちのすべての罪を赦すための十字架でありました。神様の前にある負債はすべて支払い済みです。その証拠にキリストは復活されました。このキリストに信頼するものは救いを受けます。
 神様を軽く見て、神様がいないようにして生きていかれるでしょうか。ぜひ神様を認め、この救いのみことばを受け入れられますように強くお勧めいたします。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ書425節)

2017年5月28日日曜日

2017/05/28 福音集会

こんにちは!もう紫陽花の綺麗な季節ですね。


今日は東住吉キリスト集会から山森さんに来ていただいて聖書のメッセージを聞きました。

「あなたの造り主を覚える幸い ーキリストが与える救いへの3段階」というテーマで、聖書の語る救いについて3つのポイントを話してくださいました。

一つ目は「自分が生きているのではなく生かされているという事実を知る」ということです。

子供は世の中が自分中心であると考えますが、成長すると自分の見えないところにも多くの労苦と配慮があることに気が付きます。
自分が神様によって生かされていることをに気が付くと、謙虚さを身に着けることができます。

二つ目は「自分が創造主の前に罰せられなければならない罪人であることを知る」ということです。

創世記37章26節が開かれましたが、聖書でもたくさんの罪深い人々について書かれています。
あの使徒パウロも自分のことを「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」(Ⅰテモテ1章13節)と言っています。

三つ目は「神の愛を知る」ということです。

何か悪いことをしたときに良心の咎めを感じることがあると思いますが、良心があるのは人間だけです。
神様は人間を愛しておられ、特別に創られたのです。
良心の咎めを感じたらどうしますか。
一つの悪いことをした場合、十の良いことをすれば帳消しになりますか?
相手に謝ったら許されますか?
もし相手に謝ることのできない状況であればどうしたらよいのでしょうか?

「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」Ⅰテモテへの手紙1章15節

聖書にははっきりとキリストを信じたら救われると書いてあります。
それは一つの罪もないキリストが私たちの罪を引き受けてくださったからです。

あなたを特別に愛し、イエス・キリストによってあなたを救う道を開いてくださった神様と共に歩まれることをお勧めします。

2017年5月21日日曜日

2017/05/21 福音集会

こんにちは!ここ数日、5月とは思えないほど暑い日が続いていますが、体調を崩してはおられないでしょうか?
今日も、福音集会で語られた聖書の言葉をご紹介します。
2人の方が語られたので、前半と後半に分けて、ご紹介します。

◯前半
<ヤコブの手紙1章15節>
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

この箇所から、死に至らせるのは、自分自身の中にある欲望ということがわかります。

人生にはいろいろと不安なことがありますが、もっとも大きな不安の一つは、死ぬときの不安、死んだらどうなるのか、ということでしょう。

その不安の解決は、聖書の中にあります。聖書の中の救いを受け入れ、人生の安心を得て頂きたいです。

◯後半  テーマ:出会い

「出会い」という言葉をインターネットで検索すると、やはり一番多いのは男女の出会いについてで、次に多いのはビジネスのきっかけになる出会い、だそうです。

人は出会いを求め、出会いによって幸せになろうとしているのかもしれません。

とある本には、人は生涯に5万人とすれ違い、3千人と出会い、300人の名前を覚え、30人と友達になり、3人と親友になる、とあります。

今日語ってくださった方は、カナダでの出会いによって、人生が大きく変わったと話してくれました。
異国の地でのホストファミリーとの交流や、異文化の生活は新鮮なことばかりでしたが、一番驚いたのは、その家族がクリスチャンで、その生活を目の当たりにしたことだったそうです。
教会にも行き、多くのクリスチャンと出会い、食事やいろいろな行事に参加するなかで、その人たちの優しさや愛情に触れました。そして、そんな出会いを通して、神様を知ることができたのです。

ここで、イエス様とその弟子の出会いの場面を見てみましょう。

<ヨハネの福音書1章35節~42節>
イエス・キリストがその後弟子となるヨハネ、アンデレ、シモン(ペテロ)との出会いの場面です。
弟子たちは漁師であり、田舎訛りのある、無学な人でした。
ペテロはシモンという名前でしたが、イエスは彼に目を留め、ペテロと呼び、共に行動することを決めました。

この記事から、出会いについて3つのことが考えられます。

①イエス様はその人に会う前に、その人のことをよく知っており、その人のことを愛している。

ペテロに初めて会ったとき、ペテロはもちろんイエス様のことはよく知りませんでしたが、イエス様はすでに彼の名前を知っており、また彼とこの先も行動することも計画の中に入っていました。これは驚くべきことです。

しかし、私たちも、親と子の関係を考えるとき、このときのイエス様とペテロの関係が分かります。

生まれたばかりの赤ちゃんは、親がどんな人なのかよく知りませんし、考えようともしないでしょう。しかし親は、赤ちゃんがお腹の中にいるときから、その子の成長を気にかけて心配し、どんな子か考えます。そして直に会える日を期待しています。

同じように神様は、私達が神様を知る前に私達のことを知ってくださり、さらに私達が神様を知るようになることを期待しておられるのです。

②イエス様との出会いは人生を変える

ペテロは後に手紙で、
<ペテロの手紙第二  1章2節>
神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

と記しています。

ペテロのように、私たちも、イエス様を知ることによって、良い人生に変わっていくのです。

③イエスを信じる人同士は別れを経験しない

イエスを信じ、罪から清められることで、永遠の死から救われます。

<ヨハネの福音書5章24節>
わたしのことばを聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

お互いに信じる人となり、今の人生も、そしてその後も主とともにあるいのちを喜ぶ人となりましょう!

今週も主にあって守られますに!

2017年5月14日日曜日

2017/05/14 福音集会

今日のメッセージは「消え失せることのない私の宝」というテーマでした。

みなさんの宝は何ですか?
結局お金が一番頼りになる、そんな風に考えることはありませんか?
確かに財産やお金はとても大切で役に立つものです。
しかし、お金が最大の関心事になってしまうのは深刻な問題と言えるのではないでしょうか。
イエス・キリストはこんなことを言われました。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」マタイの福音書6章19‐21節

ここでは「富」が信頼できるものではないことを教えています。盗まれたり、傷ついたりするものだからです。
また、「富」に心が奪われれば奪われるほど、私たちは死後のことについて考えなくなると警告しています。人の存在はこの地上だけで終わるものではなく、また人のいのちは肉体のものだけではないと聖書は語るのです。

ルカの福音書12章13-21節にはイエスさまが話されたこんなたとえ話が書かれています。

「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」

この金持ちは真面目で勤勉に働き、多くの財産を得て成功し、浪費することなく節約し、将来の計画を賢明に立てていました。
一見とても立派な人に思えますが、なぜ神様は「愚か者」と言われたのでしょうか。
イエス様は最も大切なことは「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」だと言われています。
この金持ちは自分自身だけのために生きていて、神様のためにも他の人のためにも生きていなかったのです。

そしてそれは実は彼自身のために賢い生き方ではありませんでした。
なぜなら彼は最も大切なものを得損なっていたからです。
彼はこの世でずっと生きていくことが当然であるかのように考え、この世の小さなものに執着していました。
尊いものは私たち自身なのであり、私たちの持ち物ではないことに気が付いていなかったのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネの福音書3章16-17節

聖書は「永遠のいのち」こそ私たちにとって消え失せることのない宝であると語ります。
どうすればその「永遠のいのち」を受けられるのでしょうか。
それは「御子を信じる」ことです。
「御子を信じる」とは①創造主である神様を信じること、②神様を無視して罪の中に生きてきたことを悔い改めること、③自分自身の代わりにキリストが死なれたことを信じることであると言えます。

ぜひイエス・キリストを信じ受け入れ、消え失せることのない宝を神様からいただきましょう!


2017年5月7日日曜日

2017/05/07 福音集会

こんにちは。
ゴールデンウイークも今日で終わり、明日から職場や学校に行く方も多いと思います。
その前に、今日も、福音集会で話された聖書の言葉をご紹介します。


<マルコの福音書5章25-35節>
12年間長血(婦人病)を患っている女性がいました。いままでどんな医者に掛かっても、良くなりませんでした。
イエスが通ったとき、イエス様は群衆に囲まれていました。女は「この方に触れればきっと治る」と思い、群衆に紛れ込み、イエスに触ると、たちまち治りました。
しかし、イエスは「誰が私に触ったのか」と探されました。女は恐れながら、名乗り出て、全てを打ち明けました。

楽しい時間はすぐに過ぎ、嫌な時間は長く感じるものです。
この女性の12年間は、どんなに長かったことでしょうか。
しかも、当時の社会では、このような病気を患っている人は汚れた人

女が癒されるに至ったポイントが2つあります。

①病に罹っている自覚
②治りたいと願い、治る可能性に活路を見いだしていた

医者とは違い、一瞬で、完璧に病を癒されるイエス様の噂は、女の耳にも届いていたはずです。そして、そこまで力のある方ならば、着物に触るだけで治るのでは、と考えたのです。

ナアマンの話
皮膚の病気に罹っていたナアマンは、当時力のあった預言者エリシャの元へ行き、直してもらうよう頼みます。そこでエリシャは、ヨルダン川に7回身を浸しなさい、と教えます。ナアマンはそんな簡単なことで直すなんて、と憤慨してしまいます。しかし、彼の家来により諭され、ヨルダン川に身を浸して治りました。

ナアマンは、仰々しくなにか手を当ててもらったり看病してもらったりするのを期待していたのでしょう。

これらの記事は、
病気の癒しを通して罪の解決を教えています。
病気も、罪も、正常でない状態を表しています。
肉体の病気は死に至りますが、罪は
霊的な滅びに至らせる


エペソ2章1節~3節
あなたがたは自分の罪過の中に死んでいた者であって、(中略)
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の欲の中に、生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人と同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

私たちは生まれながらに罪人なので罪を犯してしまいます。
神様に生かされているのに、神様を認めず、罪を犯し続けています。
長血の女のように、わたしたちも、自分が霊的な罪人である自覚をしなければなりません。
そして、正しい医者、救い主であるイエス様の元へ行き、治してもらわなくてはなりません。

イエス様の元へ行った人は、どうなるのでしょうか。
もう一度、長血の女の記事を見直して見ましょう。

マルコの福音書5章30節~
では、イエス様が女を探す様子が描かれています。女は怒られるのかもしれないとびくびくしていたかもしれませんが、イエス様はそうはされず、「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と優しく声をお掛けになったのです。

ピリピ2章6節~8節
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。

このイエス様を知っているだけでなく、心で受け入れ、信仰の手で触れてください。

それでは、みなさんこ一週間も主にあって守られますように!





2017年4月30日日曜日

2017/04/30 福音集会

春が終わり、あっという間に初夏のような暑さがやってきましたね!

みなさんは「行動」と「感情」はどちらが先だと思いますか。

今日の福音集会で創世記3章が開かれました。
神様によって創られた人、アダムとエバはエデンの園に置かれていました。
神様は園のどの木からでも好きなように実を取って食べてよいと言われました。
ただし、園の中央にある「善悪の知識の木」からは食べてはならない、と。
しかし彼らは蛇に誘惑され、善悪の知識の木から実を取って食べてしまうのです。

3章7節にこうあります。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」
彼らは恥ずかしいので、おおいを作ったのです。
そして神様から隠れた彼らに神様は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられます。
3章10節を見ましょう。
「彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」
人は神様によって創られた初めから、感情によって行動していることが分かりますね。


私たちはこの社会の中で色々な悩みを抱えています。
その中でほとんどの人が抱える悩みは人間関係の悩みではないでしょうか。
周囲の期待や要求に応えようとして自分らしさを出せなかったり、他人との違いを隠さなければコミュニケーションを取れないというようなことがあると思います。

しかしアダムは創られた初めから裸だったのです。
裸の(=弱い)自分であっても、神様が共にいて支え、満たしてくださるという生き方をしていたのに、裸の(=弱い)自分だから、自分で何とかしなければならないという考えが入ってしまったのです。


私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」ローマ人への手紙5章6節

私たちも弱いのです。
そして、神を神として認めず、自分の力で何とかしようとしてしまいます。
しかし、神様から隠れたり、弱さを覆い隠したりすることでは解決しません。
自分の弱さを認め、そのままの姿で私たちを支えてくださる神様のもとへ身を寄せればよいのです。

「不敬虔」、つまり神様を神様として認めない弱い私たちのために、イエス・キリストは十字架に架かって死なれました。
そして復活され、今も生きておられます。

あなたも弱さを覆い隠して自分で全てを解決しようとする生き方ではなく、弱いままだからこそあなたを支えてくださる神様と共に歩みませんか。

2017年4月23日日曜日

2017/04/23 福音集会

新学期が始まってもう3週間もたったのですね。時が過ぎるのは早いものです。忙しいこの時期にあっても聖書のおはなしをお伝えすることができるのはとても感謝なことです。
今日は仏教を学んでいた方が聖書と出会って変えられた証を聞きました。そして後半ではその聖書が何を語っているのかを聞きましたので、お分かちしたいと思います。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1章15節) 
 
この中の「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉、これはイエス・キリストが公の場で初めて語った言葉として記されていて、それだけ重要なメッセージですので、じっくりと考えましょう。
まず、「悔い改める」とはどういうことでしょうか?これは原語ではメタノイアといって、方向転換を意味する言葉です。聖書は自己中心(罪)の生き方から、創造主なる神中心の生き方への方向転換について語っています。
しかし、どうすれば方向転換できるのでしょうか?方向転換するためには目的地と現在地が分かっていないといけません。

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3章9節) 
 
これは最初の人アダムが神に背いた後、神がアダムを呼ばれた箇所です。
私たちはどこにいるのでしょうか?私たちはアダムが神に背いて以降、罪人となったのです。
 
では私たちはどこへ向かうのでしょう?もし、目的地を見失って罪の中に生きていたら、そこには神の裁きがある、と聖書は語ります。
しかし、イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。それは、私たちを救うためでした。キリストはむごたらしい十字架の上で神から捨てられ、私たちの罪を完全に負ってくださったのです。ここに罪からの救いがあるのであり、これこそがイエス・キリストが「信じなさい」と言われた「福音」なのです。
 
私たちの現在地は自分中心の罪でしたが、イエス・キリストは罪からの救いのために十字架にかかられました。イエス・キリストはこの救いを受け入れなさいと招いておられます。
みなさんはどこを目的地に定められますか?ぜひイエス・キリストの招きに応え、神の赦しを受け入れる方へと方向転換されますようお勧めいたします。

2017年4月16日日曜日

2017/04/16 福音集会

みなさんは春といえば何を思い浮かべますか?
最近この時期に「イースター」という言葉をよく聞くことがあるかと思います。
今日の福音集会はそんなイースターの話から始まりました。


イースターの遊びとして「エッグハント」というものがあります。
色を塗った卵を隠しておき、それを探し出す遊びです。
子供たちはとても楽しんでこの遊びをします。
しかし、イースターはイエス・キリストの復活をお祝いする日なのです。
遊びで得られる喜びは一時的ですが、キリストの復活を知っている喜びは永遠に続きます!

今日はそんなイエス・キリストの復活についてご紹介します。

ルカによる福音書24章はイエス様の復活について書かれています。
イエス様が十字架に架かられてから三日目の朝、イエス様のお墓に行った女性たちはそこが空であるのを発見します。
そしてイエス様が以前「三日目によみがえる」と言われていた言葉を思い出し、他の弟子たちに報告するのですが、彼らは信じませんでした。
その後、イエス様は弟子たちの前に何度もご自身を現わされますが、彼らはイエス様の復活をなかなか信じられなかったことが多く書いてあります。

世界で初めのイースターは戸惑いと恐れの日だったのです。

なぜ弟子たちは復活されたイエス様を見たにもかかわらず、信じられなかったのでしょうか。
それは彼らが常識として復活などないと考えていたからかもしれません。
また、復活されたイエス様の体が、以前の体とは違ったからかもしれません。
復活されたイエス様はいつの間にか現れ、いつの間にか見えなくなる霊のような体でした。
しかしそれは霊でも幻でもなく、魚を食べることのできる体であり、触ることのできる体でした。

不思議ですね。
しかし、現代の私たちも似たことを経験しています。
みなさんはスマホを落として画面が割れたことはありますか。
もし粉々に割れ、メーカーでも修理できない状態であれば、新しい機種に替えると思います。
バックアップを取っていれば、データは移せます。
新機種ですから、容量が増え、形は少し変わり、新しい機能が追加されていますが、中身はそのままです。

人間でさえこんなことができるのです。
まして創造主である神様はイエス様に新しい復活の体を与えられたように、私たちにも新しい体を与えてくださるのです。

罪により、生まれつき神に対して死んだ私たちですが、神様はイエス様の死によって私たちの罪を赦し、またイエス様の復活によって私たちを生かしてくださいました。
そしてやがて私たちも神様と共に永遠に生きる栄光の体が与えられるのです。



私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」コリント人への手紙第一15章3~6節

「最もたいせつなこと」は私たちがすることではなく、神様が成し遂げたことです。
私たちはそれを受け入れ、信じるだけで良いのです。

イエス様の復活を疑い、戸惑っていた弟子たちが、迫害されて命を捨ててまでもイエス様のことを伝え続けたのは、このイエス様の死と復活によって与えられるいのちが本物であると確信していたからです。

一度も死んだことのない方の言うことに流されないでください。
一度死なれ、復活され、今も生きておられ、私たちを生かす方が「あなたを生かす!」と言われているのです。
ぜひその声に耳を傾けてください。

2017年4月9日日曜日

2017/04/09 特別福音集会

雨の日が続いていますが、桜の花びらが風に乗って舞い散る姿もとても綺麗ですね!


今日はアイルランド出身のロナルド・ケアンズさんが「人生で最も大切なもの」というテーマで語ってくださいました。

みなさんはあっと言う間に時間が流れると感じたことはありませんか。
特に今は世界中で様々な事件が頻発し、どこで何が起こるか分からない不安定な時代です。
だからこそ、私たちは人生についてまじめに考えなければなりません。

マタイによる福音書6章33節にはこうあります。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」

私たちは生きていくうえで、仕事のこと、家庭のこと、勉強のこと、将来のことなど、考えることがたくさんありますよね。
しかし第一にするべきことは「神の国と神の義」であると聖書は言います。
 「神の国」とは「神様の支配」とも言えます。
つまり、創造主であり唯一の神である方を自分の王とすること、もっと簡潔に言えば「神様と自分との関係について考えなさい」と聖書は言っているのです。


では、神様の支配を受け入れた人はどうなるのでしょう。

(1)その人は豊かな人生を送ります。
この「豊かさ」はお金ではなく、心の豊かさです。
神の支配を受け入れたクリスチャンにも悲しいことや悩みがありますが、そのような中でも神様が守ってくださるという確信がありますので、平安と愛があふれるようになります。

(2)また、死の恐怖が取り除かれます。
人は皆死を恐れますが、それは死んだあとどうなるか分からないからではないでしょうか。
神様の支配を受け入れた人は永遠のいのちが与えられると約束されていますので、死への恐れが取り除かれるのです。


このように聖書には素晴らしい約束がたくさん書かれていますが、それらを聞いてもなかなか受け入れられないと感じられる方が多いのではないでしょうか。

イエス様はマタイによる福音書13章でこんなたとえ話をされました。

 ある人が種を蒔きました。
 ある種は道端に落ち、鳥に食べられてしまいます。
 ある種は岩地に落ち、枯れてしまいます。
 ある種はいばらの中に落ち、いばらにふさがれてしまいます。
 ある種は良い地に落ち、多くの実を結びます。

聖書の素晴らしい約束を聞いても、偏見や固定観念により受け入れることができない人がいます。
素晴らしい約束を聞いて初めは喜んでいても、不安が襲うと離れていく人がいます。
素晴らしい約束を聞いても、仕事やこの世の楽しみに心が奪われる人がいます。

神様と個人的な関係を結んで素晴らしい人生を歩むかどうかは、あなたの選択にかかっているのです。
聖書に書かれた素晴らしい約束について、よく聞き、客観的に考え、そして受け入れる決心をすることをお勧めします!

春のファミリーキャンプのご案内


今年も若狭湾で2泊3日のキャンプをします!
ご興味のある方は、下記アドレスまでお尋ねください。

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題名に「キャンプについて」と入れていただけると助かります。


2017年4月2日日曜日

2017/04/02 福音集会

こんにちは!
集会所近くの天神川の桜は、今にも花開きそうなほどにつぼみを膨らませていました。
京都西京極キリスト集会では、こんな美しい自然をも創られた神様について毎週の福音集会で語られています。
今日も皆さんにそのメッセージの一部を紹介いたします。


今日の福音集会では「あなたという個人にかかわってくださる神様」というテーマで、イエス・キリストを信じた人に与えられるものの素晴らしさについて語られました。

皆さんは宇宙にどれだけの星があるかご存知でしょうか。
2~4000億の星を含む銀河が約1000億あると言われています。
また、これまでに地球上に生まれた人間の総数は約1000億人とも言われています。
宇宙を見ると地球は本当に小さく、またその中の私たち一人一人も本当に小さい存在に思えませんか?

しかし、神様は私たち一人一人を本当に価値ある存在として見てくださっていると聖書は語ります。
神様の基準はこの世の基準とは全く異なるのです。

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ人への手紙3章20~24節

私たちの世界では60点で合格、それ以下は追試というようなことがよくありますが、神様は完全な方ですから、その合格点は100点です。
その神様の基準(=律法)によって、私たちは神様の前に罪人であることが分かります。

しかし、私たちの世界では追試を受けて合格点まで達する必要がありますが、神様はその試験を私たちにではなく、イエス・キリストに受けさせられました。
私たちが0点だとしても、イエス様が代わりに100点を取って神様の基準を満たしてくださっているので、私たちはそのことを信じて受け入れるだけで良いのです!

神様は私たちにとって「たましいの牧者であり監督者である方」(Ⅰペテロの手紙2章25節)です。
私たちはすぐに自分を人と比較して誇ったり、落ち込んだりするような価値観の中で生きていますが、神様は私たちと個人的にかかわってくださる方ですので、私たちをそのままの姿で受け入れ、養ってくださいます。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」イザヤ書40章8節

あなたもイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、神様と共に歩む人生を始めませんか…?
 

2017年4月1日土曜日

ご挨拶

こんにちは!
京都西京極キリスト集会に集うクリスチャンです。

2017年4月からこちらで福音集会でのメッセージやイベントなどについてご紹介させていただきます。

2017年3月までの記事は下記のURLからご覧いただけます。
https://blogs.yahoo.co.jp/kyoto_assembly

どうぞよろしくお願いいたします😊

お知らせ

本日の午後の集会は台風の影響の為、中止となります。 2018/9/30