2017年5月28日日曜日

2017/05/28 福音集会

こんにちは!もう紫陽花の綺麗な季節ですね。


今日は東住吉キリスト集会から山森さんに来ていただいて聖書のメッセージを聞きました。

「あなたの造り主を覚える幸い ーキリストが与える救いへの3段階」というテーマで、聖書の語る救いについて3つのポイントを話してくださいました。

一つ目は「自分が生きているのではなく生かされているという事実を知る」ということです。

子供は世の中が自分中心であると考えますが、成長すると自分の見えないところにも多くの労苦と配慮があることに気が付きます。
自分が神様によって生かされていることをに気が付くと、謙虚さを身に着けることができます。

二つ目は「自分が創造主の前に罰せられなければならない罪人であることを知る」ということです。

創世記37章26節が開かれましたが、聖書でもたくさんの罪深い人々について書かれています。
あの使徒パウロも自分のことを「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」(Ⅰテモテ1章13節)と言っています。

三つ目は「神の愛を知る」ということです。

何か悪いことをしたときに良心の咎めを感じることがあると思いますが、良心があるのは人間だけです。
神様は人間を愛しておられ、特別に創られたのです。
良心の咎めを感じたらどうしますか。
一つの悪いことをした場合、十の良いことをすれば帳消しになりますか?
相手に謝ったら許されますか?
もし相手に謝ることのできない状況であればどうしたらよいのでしょうか?

「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」Ⅰテモテへの手紙1章15節

聖書にははっきりとキリストを信じたら救われると書いてあります。
それは一つの罪もないキリストが私たちの罪を引き受けてくださったからです。

あなたを特別に愛し、イエス・キリストによってあなたを救う道を開いてくださった神様と共に歩まれることをお勧めします。

2017年5月21日日曜日

2017/05/21 福音集会

こんにちは!ここ数日、5月とは思えないほど暑い日が続いていますが、体調を崩してはおられないでしょうか?
今日も、福音集会で語られた聖書の言葉をご紹介します。
2人の方が語られたので、前半と後半に分けて、ご紹介します。

◯前半
<ヤコブの手紙1章15節>
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

この箇所から、死に至らせるのは、自分自身の中にある欲望ということがわかります。

人生にはいろいろと不安なことがありますが、もっとも大きな不安の一つは、死ぬときの不安、死んだらどうなるのか、ということでしょう。

その不安の解決は、聖書の中にあります。聖書の中の救いを受け入れ、人生の安心を得て頂きたいです。

◯後半  テーマ:出会い

「出会い」という言葉をインターネットで検索すると、やはり一番多いのは男女の出会いについてで、次に多いのはビジネスのきっかけになる出会い、だそうです。

人は出会いを求め、出会いによって幸せになろうとしているのかもしれません。

とある本には、人は生涯に5万人とすれ違い、3千人と出会い、300人の名前を覚え、30人と友達になり、3人と親友になる、とあります。

今日語ってくださった方は、カナダでの出会いによって、人生が大きく変わったと話してくれました。
異国の地でのホストファミリーとの交流や、異文化の生活は新鮮なことばかりでしたが、一番驚いたのは、その家族がクリスチャンで、その生活を目の当たりにしたことだったそうです。
教会にも行き、多くのクリスチャンと出会い、食事やいろいろな行事に参加するなかで、その人たちの優しさや愛情に触れました。そして、そんな出会いを通して、神様を知ることができたのです。

ここで、イエス様とその弟子の出会いの場面を見てみましょう。

<ヨハネの福音書1章35節~42節>
イエス・キリストがその後弟子となるヨハネ、アンデレ、シモン(ペテロ)との出会いの場面です。
弟子たちは漁師であり、田舎訛りのある、無学な人でした。
ペテロはシモンという名前でしたが、イエスは彼に目を留め、ペテロと呼び、共に行動することを決めました。

この記事から、出会いについて3つのことが考えられます。

①イエス様はその人に会う前に、その人のことをよく知っており、その人のことを愛している。

ペテロに初めて会ったとき、ペテロはもちろんイエス様のことはよく知りませんでしたが、イエス様はすでに彼の名前を知っており、また彼とこの先も行動することも計画の中に入っていました。これは驚くべきことです。

しかし、私たちも、親と子の関係を考えるとき、このときのイエス様とペテロの関係が分かります。

生まれたばかりの赤ちゃんは、親がどんな人なのかよく知りませんし、考えようともしないでしょう。しかし親は、赤ちゃんがお腹の中にいるときから、その子の成長を気にかけて心配し、どんな子か考えます。そして直に会える日を期待しています。

同じように神様は、私達が神様を知る前に私達のことを知ってくださり、さらに私達が神様を知るようになることを期待しておられるのです。

②イエス様との出会いは人生を変える

ペテロは後に手紙で、
<ペテロの手紙第二  1章2節>
神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

と記しています。

ペテロのように、私たちも、イエス様を知ることによって、良い人生に変わっていくのです。

③イエスを信じる人同士は別れを経験しない

イエスを信じ、罪から清められることで、永遠の死から救われます。

<ヨハネの福音書5章24節>
わたしのことばを聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

お互いに信じる人となり、今の人生も、そしてその後も主とともにあるいのちを喜ぶ人となりましょう!

今週も主にあって守られますに!

2017年5月14日日曜日

2017/05/14 福音集会

今日のメッセージは「消え失せることのない私の宝」というテーマでした。

みなさんの宝は何ですか?
結局お金が一番頼りになる、そんな風に考えることはありませんか?
確かに財産やお金はとても大切で役に立つものです。
しかし、お金が最大の関心事になってしまうのは深刻な問題と言えるのではないでしょうか。
イエス・キリストはこんなことを言われました。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」マタイの福音書6章19‐21節

ここでは「富」が信頼できるものではないことを教えています。盗まれたり、傷ついたりするものだからです。
また、「富」に心が奪われれば奪われるほど、私たちは死後のことについて考えなくなると警告しています。人の存在はこの地上だけで終わるものではなく、また人のいのちは肉体のものだけではないと聖書は語るのです。

ルカの福音書12章13-21節にはイエスさまが話されたこんなたとえ話が書かれています。

「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」

この金持ちは真面目で勤勉に働き、多くの財産を得て成功し、浪費することなく節約し、将来の計画を賢明に立てていました。
一見とても立派な人に思えますが、なぜ神様は「愚か者」と言われたのでしょうか。
イエス様は最も大切なことは「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」だと言われています。
この金持ちは自分自身だけのために生きていて、神様のためにも他の人のためにも生きていなかったのです。

そしてそれは実は彼自身のために賢い生き方ではありませんでした。
なぜなら彼は最も大切なものを得損なっていたからです。
彼はこの世でずっと生きていくことが当然であるかのように考え、この世の小さなものに執着していました。
尊いものは私たち自身なのであり、私たちの持ち物ではないことに気が付いていなかったのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネの福音書3章16-17節

聖書は「永遠のいのち」こそ私たちにとって消え失せることのない宝であると語ります。
どうすればその「永遠のいのち」を受けられるのでしょうか。
それは「御子を信じる」ことです。
「御子を信じる」とは①創造主である神様を信じること、②神様を無視して罪の中に生きてきたことを悔い改めること、③自分自身の代わりにキリストが死なれたことを信じることであると言えます。

ぜひイエス・キリストを信じ受け入れ、消え失せることのない宝を神様からいただきましょう!


2017年5月7日日曜日

2017/05/07 福音集会

こんにちは。
ゴールデンウイークも今日で終わり、明日から職場や学校に行く方も多いと思います。
その前に、今日も、福音集会で話された聖書の言葉をご紹介します。


<マルコの福音書5章25-35節>
12年間長血(婦人病)を患っている女性がいました。いままでどんな医者に掛かっても、良くなりませんでした。
イエスが通ったとき、イエス様は群衆に囲まれていました。女は「この方に触れればきっと治る」と思い、群衆に紛れ込み、イエスに触ると、たちまち治りました。
しかし、イエスは「誰が私に触ったのか」と探されました。女は恐れながら、名乗り出て、全てを打ち明けました。

楽しい時間はすぐに過ぎ、嫌な時間は長く感じるものです。
この女性の12年間は、どんなに長かったことでしょうか。
しかも、当時の社会では、このような病気を患っている人は汚れた人

女が癒されるに至ったポイントが2つあります。

①病に罹っている自覚
②治りたいと願い、治る可能性に活路を見いだしていた

医者とは違い、一瞬で、完璧に病を癒されるイエス様の噂は、女の耳にも届いていたはずです。そして、そこまで力のある方ならば、着物に触るだけで治るのでは、と考えたのです。

ナアマンの話
皮膚の病気に罹っていたナアマンは、当時力のあった預言者エリシャの元へ行き、直してもらうよう頼みます。そこでエリシャは、ヨルダン川に7回身を浸しなさい、と教えます。ナアマンはそんな簡単なことで直すなんて、と憤慨してしまいます。しかし、彼の家来により諭され、ヨルダン川に身を浸して治りました。

ナアマンは、仰々しくなにか手を当ててもらったり看病してもらったりするのを期待していたのでしょう。

これらの記事は、
病気の癒しを通して罪の解決を教えています。
病気も、罪も、正常でない状態を表しています。
肉体の病気は死に至りますが、罪は
霊的な滅びに至らせる


エペソ2章1節~3節
あなたがたは自分の罪過の中に死んでいた者であって、(中略)
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の欲の中に、生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人と同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

私たちは生まれながらに罪人なので罪を犯してしまいます。
神様に生かされているのに、神様を認めず、罪を犯し続けています。
長血の女のように、わたしたちも、自分が霊的な罪人である自覚をしなければなりません。
そして、正しい医者、救い主であるイエス様の元へ行き、治してもらわなくてはなりません。

イエス様の元へ行った人は、どうなるのでしょうか。
もう一度、長血の女の記事を見直して見ましょう。

マルコの福音書5章30節~
では、イエス様が女を探す様子が描かれています。女は怒られるのかもしれないとびくびくしていたかもしれませんが、イエス様はそうはされず、「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と優しく声をお掛けになったのです。

ピリピ2章6節~8節
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。

このイエス様を知っているだけでなく、心で受け入れ、信仰の手で触れてください。

それでは、みなさんこ一週間も主にあって守られますように!





2017/7/30 福音集会

今日の福音集会ではマタイの福音書14章22~33節が開かれました。 イエス様の弟子たちだけで舟に乗り、湖の向こう岸へ渡っていましたが、夜中の3時頃湖の上を歩いて来られたイエス様を見て、弟子たちは幽霊ではないかと恐れます。 しかしイエス様はすぐに弟子たちに「恐れることはない」...