2017年7月30日日曜日

2017/7/30 福音集会

今日の福音集会ではマタイの福音書14章22~33節が開かれました。

イエス様の弟子たちだけで舟に乗り、湖の向こう岸へ渡っていましたが、夜中の3時頃湖の上を歩いて来られたイエス様を見て、弟子たちは幽霊ではないかと恐れます。
しかしイエス様はすぐに弟子たちに「恐れることはない」と声をかけてくださいました。そしてこう続きます。

「すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。」

ここから5つのポイントについて考えました。

①私たちが信じる神様は確かなお方です。
私たちは人間関係の中で、相手が信頼できる人だと分かったときに心を開き、関係が一歩前進することがあると思います。
その信頼する相手が確かな人であることが重要ですが、私たちは人間である以上、間違うことも失敗することもあります。
しかし神様は確かなお方です。
裏切ることも間違うこともなく、最善をなさる方です。
私たちは神様に従っていれば間違うことはないのです。

②あなたが人生の暗闇を歩いているときも、神様はそのことをご存知です。
弟子たちは真っ暗な中、小さな木の舟に乗り、風が吹いて波に悩まされ、不安と恐れでいっぱいだったでしょう。
しかしそのときにイエス様は彼らを見捨てていたわけではありませんでした。
自ら私たちのもとに近づいてきてくださるお方なのです。

③信仰は神様が用意されるのです。
もう少し聖書が分かったら信じようとか、もう少し信仰をもつようになったらバプテスマを受けようなどと考えておられる方がいるかもしれません。
私たちが湖の上を歩けないように、ペテロも歩けませんでした。
しかし神様がペテロを歩かせてくださったのです。
他の弟子たちは舟の中にとどまっていましたが、ペテロは一歩踏み出し、歩き出したことで神様の助けを体感できたのです。
こんな小さな信仰では…と思うのではなく、一歩踏み出すことで神様を実感できることがあるのです。

④私たちは沈みかけているということに気が付く必要があります。
ペテロは一気に沈んでしまったのではありませんでした。「沈みかけた」のです。
そのときにペテロは自分の力で何とかしようとしたり、弟子たちに助けを求めたりはせず、イエス様に助けを求めました。
今、私たちも沈みかけているのです。今こそ聖書について、また神様について考え、備えられた救いを受け取るときです。
信仰を持てるのは私たちが生きている間だけなのです。

⑤イエス様は私たちの罪のために身代わりとして死んでくださいました。
「もしあなたがたが、わたし(=イエス・キリスト)のことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」ヨハネによる福音書8章24節

この「わたしのこと」は原文のギリシャ語では「エゴー・エイミ」と言い、神様の存在そのものを表す言葉として聖書で使われています。
つまりこの文章は「私が神であることを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」と読めますし、反対に言えば「イエス・キリストが神であることを信じれば、私たちは生きる」と言えます。

イエス様は神である方なのに私たちの罪のために死なれたのです。
そして私たちの罪が解決されていることを示すために復活されました。

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」コリント人への手紙第二6章2節

ぜひみなさんもイエス様を信じ従って歩まれることをお勧めします。

2017年7月23日日曜日

2017/7/23 福音集会

今日も、伝道集会で開かれたみことばをご紹介します。

詩篇39篇4節
主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢の終わりが、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができますように。
<7節>主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

この箇所から、2つのことがわかります。
ひとつは、人生は儚いものだが、人はそれに気づいていないということ、もう一つは人は神様のことを知るべきであるということです。

神様は、唯一であり、生きておられ、この世界の創造主であり、霊的(人格を持った)存在です。

<ローマ人への手紙5章12節>
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。

とっさに考えなしにとった行動が、誰かにとって悪いことだったり、相手を傷つけることだったりしたことはありませんか?
人は誰でも、罪の性質があります。

そんな罪人を、神様はお見捨てになることはしませんでした。
神の子であるイエス・キリストは、神が人を愛するがゆえに、十字架にかかり、私たちの罪の身代わりになってくださいました。

この身代わりに、というのは、私が借金を負っているとして、ある大金持ちがそれを肩代わりして完済してくれる、というような状況に似ています。

イエス・キリストは十字架で死んで葬られましたが、3日目によみがえりました。目撃者は数人の弟子だけでなく、500人以上いたと記述があります。数多くの証人がいたのです。

イエス・キリストの十字架には、どんな意味があるのでしょうか。
科学技術が進歩して、人間そっくりの、いやそれ以上の知能を持つロボットが生まれるのも、現実味を帯びてきました。
そうなると、人間の価値は失われるのでしょうか?
いいえ、けっしてそんなことはありません。人間は、他の動物達とは違い、神様が霊的な存在として創造されたからです。神様は人を愛し、尊い存在としておられます。

<ピリピ人への手紙 3章20節>
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

これらのことを信じた者たちの国籍は天にあります。地上の身体が死んだ後、天におられる神様のもとに帰れることを喜び、待ち望みながら地上の生活を歩んでいます。

この喜びをともに味わい、待ち望む人生を歩みましょう!

2017年7月2日日曜日

2017/7/2 福音集会

今日は「信仰」というテーマでのお話がありました。

信仰とは何でしょうか。
それは神様を信頼することです。
神様を愛することとも言えます。
「信頼する」ということは強い人や大人だけができることなのではなく、むしろ弱く幼い子供の方ができることです。

ローマ人への手紙10章17節にはこう書かれています。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

誰でも神様を信頼することはできますが、自分に語られているものとして聖書を読む必要があります。
そして自分がどんな存在か理解するだけでなく、キリストについて知らなければなりません。

キリストは何をされた方なのでしょう。
聖書にはこうあります。
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」コリント人への手紙第一15章3~6節

聖書で以前から予告されていた通りにキリストは死なれ、死んだことが確認されたので葬られ、聖書で予告されていた通りによみがえられ、また現れたことが多くの人に確認されたのです。
キリストの死と復活が明確な事実であるということが分かります。

神様との交わりがあることを聖書では「永遠のいのち」と言いますが、神様との交わりが絶たれた状態は「死」なのです。

神様を神様とせず、代わりにお金や偶像などを神様のポジションに置いている私たちは霊的に死んだ状態の罪人なのです。

「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」と詩篇49篇8節にあります。

私たちは自分自身のいのちをかけても自分のいのちを取り戻すことはできません。
自分で自分の罪を処理することはできないのです。

しかし、そんな私たちのため、神様はキリストを罪そのものとして十字架で裁かれました。
私たちの犯した罪を赦すためであり、また罪という原理から私たちを解放するためでもあります。

神様はキリストを信じる者をキリストと一つとして見られます。
キリストが十字架で死んだとき、私たちも共に死に、キリストが復活されたとき、私たちも共に生かされるものとみなされるのです。

あなたも神様を信頼し、神様の言葉に従い、神様の支配を自分のうちに受け入れ、神様によって生かされたものとして歩みませんか。

2017/7/30 福音集会

今日の福音集会ではマタイの福音書14章22~33節が開かれました。 イエス様の弟子たちだけで舟に乗り、湖の向こう岸へ渡っていましたが、夜中の3時頃湖の上を歩いて来られたイエス様を見て、弟子たちは幽霊ではないかと恐れます。 しかしイエス様はすぐに弟子たちに「恐れることはない」...