2017年8月27日日曜日

2017/8/27 福音集会

8月も最後の日曜日となりました。みなさまいかがお過ごしですか。
 本日の福音集会ではゲストをお呼びして、『聖書が語るいのちの水』と題してメッセージをいただきました。このブログで少し分かち合いたいと思います。
 今日のお話では、イエス様とサマリヤ人の女性との記事から、神様からの救いについて考えることができました。

サマリヤの女

ヨハネの福音書4章1節から42節にサマリヤ人女性の記事が記されています。この記事ではイエス様はのどが渇いて、水を汲んでいるサマリヤの女性に水を求められました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしませんでしたが、これを契機にイエス様とサマリヤ人女性との物語が始まります。
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」
(ヨハネの福音書4章14節)
 さて、この言葉はサマリヤ人女性にイエス様が飲み水を求めた後、イエス様が「わたしは生ける水を与える」と言われました。それに対して、「あなたは汲むものを持っていないのに、どうやってその水を手に入れるのか」とサマリヤ人女性が尋ねたことへのイエス様の答えです。「この水」とは井戸から汲んで手に入れる水です。もちろん飲んでもまた渇きます。イエス様は渇かない水を与えると言われたのです。ここには、象徴的な意味が含まれています。「この水」とは人間的な方法によって救いを求めることであり、一時的な解決こそあれ、それは一時的であり、また渇くのです。イエス様が与える救いは、永遠のいのちであるということです。
 サマリヤの女性は渇くことのない水を求めました。彼女はわき出る水が何かよくわかっていませんでしたが、これはとても幸いなことです。この女性はふしだらな生活をしていました。イエス様はそのことを言い当て、彼女の生活に迫りました。この女性は人間の愛を求め、それを人生の目的のようにしていました。これが彼女にとっての「この水」だったのです。それをイエス様は明らかにされました。彼女は何度も渇いて、5人の夫を持ち、現在は夫でないものと同棲していました。
「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
(ヨハネの福音書4章25節26節)
 彼女はキリストと出合いました。彼女は急いで町へ行って、キリストのことを町の人に伝えました。彼女はそれまで人間の愛を求めては渇きを繰り返していました。しかし、キリストと出合って、価値観が変わったのです。

私たちにとっての水

私たちはどうでしょうか?毎日渇く水を飲んで渇きを繰り返す生活でしょうか?イエス様は「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」と言われました。
「イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」
(ヨハネの福音書7章37節38節)

私たちはイエス様を信じることによってこの生ける水をいただけます。罪からの救いはこの方にあるのです。決してこの世の人間の考えた方法にはよらないのです。このサマリヤ人の女性のように、イエス様を信じることによって与えられる救いを受け取られますようお勧めいたします。

2017年8月20日日曜日

2017/8/20 福音集会

今日は「小さきものにも目を留めてくださる神様」というテーマでお話がありました。

聖書に書かれた神様はどんな方でしょうか。
人間が創った神様ではなく、人間を創られた神様です。

私たちの想像力をいくら働かせても、神様の真実を知ることはできません。
しかし神様ご自身が私たちに語ってくださっているのです。

私たちは何かを学ぶとき、それを理解したあとで行動に移すと思いますが、聖書の神様を知るには順番が少し違っています。
まず聞くこと、そして信じて従い、理解するのです。

ヘブル人への手紙11章6節にはこう書かれています。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
私たちが神様に何かを求めるのではなく、神様ご自身を求める必要があるのです。
「信じて従う」とは、キリストを救い主として受け入れるということです。

今日はメッセンジャーのNさんがご自身のお母さんの目線からお話をしてくださいました。
クリスチャンとして神様に導かれて歩んでこられましたが、困難や試練もたくさんあったそうです。
そんな人生を今振り返って思うことは、神様の恵みはいつも十分であったということと、神様はすべてを益としてくださる方であるということをおっしゃっているそうです。

ルカの福音書12章6節にはこう書かれています。
「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前に忘れられてはいません。」
1アサリオンというのは300円くらいだそうですが、ここでは雀が大切だと教えているのではなく、雀よりも私たちは尊い存在だということを教えているのです。
神様は私たち一人一人のことを覚えていてくださるお方です。

私たちがするべきことは何でしょうか。
ヨハネの福音書15章4節にはこうあります。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

神様ご自身は私たちにこう言ってくださるのです!
わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。ヘブル人への手紙13章5節

2017年8月13日日曜日

2017/08/13 福音集会



こんにちは!
今日も、福音集会で開かれたみことばをご紹介します!

テーマは、「目が開かれる」です。
聖書には、2つの目が開かれる記事があります。

一つ目は、創世記です。
<創世記3章7節>
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。

この箇所のふたりとは、最初の人アダムと、その妻エバです。
エバが蛇に唆されて、神様が食べてはいけないと命じた木の実を食べたあと、ふたりの「目が開かれた」のです。
何に対して目が開かれたのでしょうか。罪に対して目が開かれてしまいました。そして神様から体を隠そうとしますが、隠れることはできません。
それどころか、この世界の全てをご存知で、全ての場所におられる神様は、私達の見えない心の中までご存知です。

詩篇139篇1-4節
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。


二つ目は、ヨハネの福音書です。
<ヨハネの福音書9章>
イエス様がつばきで泥をつくり、目に塗って、シロアムという、池で洗うように命じます。そして盲人がその通りにすると、見えなかった目が直り、目が開かれました。

この出来事によって、盲人は目が見えるようになります。肉体的な目が見えるようになっただけではなく、さらに霊の目が開かれ、この目を開いた人は、神から出ておられる方だと気づきます。
そしてもう一度イエス様に会ったとき、イエス様は私が人の子(救い主)だと気付きます。

<ヨハネ9章38節>
彼は言った。「主よ。私は信じます。」

<ヘブル2章14,15節>
そこで、子たちは皆、血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を開放してくださるためでした。

イエスを信じる者は、死から開放され、天国に行けます。そこで神様とお会いでき、共におり、その方をもっとよく知ることができます。それはなんと幸せなことでしょうか!

2017年8月6日日曜日

2017/8/6 福音集会

 8月になりました。夏真っ盛りとなりましたが、みなさまお元気ですか?
 今日の福音集会では「希望」というテーマでお話がありましたので、少し紹介させていただきたいと思います。
 みなさまは希望を持っておられるでしょうか?何に希望を置いておられるでしょうか?希望とは何でしょうか?ぜひこの機会に考えていただけたらと思います。

「希望」について考える

町に出ると様々な「希望」があるそうです。hopeという銘柄やesperanzaという名前、みな「希望」という意味だそうです。政党のポスターにも「希望」という言葉が使われていますね。
 また、「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。」というのは『故郷』(魯迅)の最後の一節です。この言葉をどのように捉えるかはさておき、希望について考えられているということですね。このように、多かれ少なかれ私たちは希望を求めていると言えるのではないでしょうか。

希望まさに聖書にあり

 ひるがえって聖書は希望の書と言えるのではないでしょうか?聖書には絶望の中にある人が希望を与えられるというエピソードが多く出てきます。まさに、希望の書と言えます。
 例えば、モーセという人物がいます。彼はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を率いて、エジプトから脱出をするのです。神様がモーセに言われた通り、モーセはエジプトを脱出しました。しかし、逃げた先には海があり、後ろからはエジプト軍の追手という絶体絶命の状態になってしまいます。そんな中、モーセは神様に信頼しました。すると、神様は海を退かせ、陸地とされました。イスラエルの民は陸地を進み逃げることができ、エジプトの追手から守られたのです。これはまさに神様の方法、絶体絶命の中で助けてくださる神様です。
 また、ヨシャパテ王という王様がいました。彼の国が強い外国から攻められた時、彼は次のように神様に言いました。「私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」彼もまた、四面楚歌の状態で、ただ神様に信頼していました。彼の国民もみな神様に目を向け、神様が共に戦われたので、彼らの敵は打ち負かされました。それはまさに神様が戦われたのでした。ここにもまた、神様の希望があらわれています。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、
理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ書33章3節)
 神様を呼び求める時、そこに希望があるということを教えられますね。
 

救いという希望

 最後に、聖書の希望を考える以上、救いについて書かないわけにはいきませんね。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)
 私たちは自分勝手な罪人で、神様を知らない者でした。そこからは滅びを刈り取るしかない者です。それはまさに絶望、どうしようもない状態です。しかし、神様は救いをくださいました。それこそがイエス・キリストです。彼が十字架にかかってくださったのは私たちの罪のため、私たちの身代わりであったのです。彼の十字架によって、私たちのすべての罪がきよめられ、信じる者にはもれなく永遠のいのちが与えられるというのです。これこそ永遠の希望です。
 イエス・キリストと共に十字架につけられた犯罪人も、まさしく土壇場でイエス・キリストが救い主だと気が付きました。この犯罪人は「あなたはパラダイスにいます。」とイエス・キリストから告げられました。死刑執行中でも彼には希望が与えられたのですね。
 みなさまが聖書の与えてくれる希望を受け取られる方となられますように。

お知らせ

本日の午後の集会は台風の影響の為、中止となります。 2018/9/30