2017年8月6日日曜日

2017/8/6 福音集会

 8月になりました。夏真っ盛りとなりましたが、みなさまお元気ですか?
 今日の福音集会では「希望」というテーマでお話がありましたので、少し紹介させていただきたいと思います。
 みなさまは希望を持っておられるでしょうか?何に希望を置いておられるでしょうか?希望とは何でしょうか?ぜひこの機会に考えていただけたらと思います。

「希望」について考える

町に出ると様々な「希望」があるそうです。hopeという銘柄やesperanzaという名前、みな「希望」という意味だそうです。政党のポスターにも「希望」という言葉が使われていますね。
 また、「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。」というのは『故郷』(魯迅)の最後の一節です。この言葉をどのように捉えるかはさておき、希望について考えられているということですね。このように、多かれ少なかれ私たちは希望を求めていると言えるのではないでしょうか。

希望まさに聖書にあり

 ひるがえって聖書は希望の書と言えるのではないでしょうか?聖書には絶望の中にある人が希望を与えられるというエピソードが多く出てきます。まさに、希望の書と言えます。
 例えば、モーセという人物がいます。彼はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を率いて、エジプトから脱出をするのです。神様がモーセに言われた通り、モーセはエジプトを脱出しました。しかし、逃げた先には海があり、後ろからはエジプト軍の追手という絶体絶命の状態になってしまいます。そんな中、モーセは神様に信頼しました。すると、神様は海を退かせ、陸地とされました。イスラエルの民は陸地を進み逃げることができ、エジプトの追手から守られたのです。これはまさに神様の方法、絶体絶命の中で助けてくださる神様です。
 また、ヨシャパテ王という王様がいました。彼の国が強い外国から攻められた時、彼は次のように神様に言いました。「私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」彼もまた、四面楚歌の状態で、ただ神様に信頼していました。彼の国民もみな神様に目を向け、神様が共に戦われたので、彼らの敵は打ち負かされました。それはまさに神様が戦われたのでした。ここにもまた、神様の希望があらわれています。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、
理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ書33章3節)
 神様を呼び求める時、そこに希望があるということを教えられますね。
 

救いという希望

 最後に、聖書の希望を考える以上、救いについて書かないわけにはいきませんね。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)
 私たちは自分勝手な罪人で、神様を知らない者でした。そこからは滅びを刈り取るしかない者です。それはまさに絶望、どうしようもない状態です。しかし、神様は救いをくださいました。それこそがイエス・キリストです。彼が十字架にかかってくださったのは私たちの罪のため、私たちの身代わりであったのです。彼の十字架によって、私たちのすべての罪がきよめられ、信じる者にはもれなく永遠のいのちが与えられるというのです。これこそ永遠の希望です。
 イエス・キリストと共に十字架につけられた犯罪人も、まさしく土壇場でイエス・キリストが救い主だと気が付きました。この犯罪人は「あなたはパラダイスにいます。」とイエス・キリストから告げられました。死刑執行中でも彼には希望が与えられたのですね。
 みなさまが聖書の与えてくれる希望を受け取られる方となられますように。

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